論理的文章と会話技術

論文提出の〆切を直前に控えた後輩たちに学術論文執筆のためのアドバイスを与えながら、論理的文章を書く能力と会話技術との違いを痛感しました。

 私の後輩は社交的で会話技術に優れた学生であり、いつも面白い話をわかりやすく語る名人なのですが、いざ彼の研究を文章に書き起こしてみると、これがさっぱり要領を得ない。

 なぜだろうと私なりに理由を考えてみたのですが、夜になってようやく、これはどうも頭の中にいる仮想読者、つまり、彼が論文を読むと考えている人たちとの想像上のコミュニケーションがうまくいっていないのではないかと、思ったわけです。

 彼が普段会話を行う際には、目の前の聴衆の反応を見ながら、足りない言葉は補い、冗長になりそうな部分は省略するといった取捨選択をその場その場で行っています。しかし、いざ一人で文章を書き起こす段になると、相手がどういう反応を返すのかわからなくなって、舌足らずな文章になってしまうようなのです。

 論文の読み手である仮想読者と実際に会うことはできませんから、彼(女)らの気持ちを推し量るには、名文と呼ばれる文章をたくさん読んで、その文書構造から彼(女)らの精神構造を推し量り、文章に対する反応を想像するほかありません。これは非常に困難で辛い作業ですが、学問の道に来た以上は、必ず通らなければならない道なのです。